しんどいグレーゾーン

マレーシアでの生活と子育て
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アジアの多くの国では教育にとても力を入れており、エリート教育や塾の林立、よい高等教育を受けるための努力が過熱気味ですが、勉強できない子への支援はとても少ないのが現状です。知的境界領域だった長男のお話です。

小さいころから家庭教師

マレーシアで生まれ育った双子の片割れの話です。小さいころから明らかに双子の長女よりも成長の遅い長男は、話し始めるのも遅くいつまでもたどたどしい感じで色々と不器用でした。ナーサリーではビッグベビーというありがたくないあだ名をつけられてかわいがられていましたが、ちょっとやばいかもなあと思い始めていました。マレーシアでは幼稚園でも普通に文字を習うのですが、そこでもすでに落ちこぼれており、これはもしかしたら特別支援教育が必要なのかなと思い、1年生になる時点で小児発達神経科の専門医に相談に行きました。知能検査などもして、知的障害ではないが全般的に低く、特に言語領域の発達が遅いので個別のサポートを受けながら普通学校に行くのがよいのではないか、と提案されました。日本でも一時帰国時に教育センターに相談に行きましたが、日本語ではさらに理解が難しくなり同じように知的ボーダーとの評価でした。日本人学校であれば、多少落ちこぼれでも救い上げてもらえるので、一時は現地の日本人学校にと思ったのですが、フルタイムの仕事をしつつ日本語になれば私一人が学校全ての責任を持つことに自信が持てず、また将来を考えるとやはり英語が良いのかと考えました。

悩んだ末に私立の小さな学校に行ったのですが、やはり落ちこぼれ気味で家庭教師をつけました。双子なので一人だけ家庭教師もおかしいかと思い、二人一緒に週2回ほど来てもらって勉強していました。それでもやはり学校での成績は良くなく、本人ものんきにしてはいるものの、いつも落ちこぼれ気味なので成績だけでほぼ評価されてしまう学校の中では、自己肯定感が低くなり気味でした。高学年になるとグループができてきますが、そこにも入り切れずいろいろと心配は増してきました。英語と共に習うマレーシア語は特に苦手で、成績を見てもどん底でただ座っているだけなんだろうなと予測されました。

友達はそれなりにいるようでしたが、やはりおとなしくて勉強のできない子というカテゴリの中から脱却できず、いじめられてはいないが学校生活を楽しんでいるようにも全然見えない、という状況でした。ただ幸いなことに兄弟仲がよく、双子の長女と弟と3人でいつもじゃれあい、のほほんと育っていきました。

5年生終わってローカルインタ―校へ

私立学校は公教育に準じていたので、マレーシア語と英語で同時進行、6年生の終わりに全国テストがあり、6年生になるとかなりその試験に向けての勉強に集中する状態となります。それは長男には厳しすぎると思ったのと、家庭では英語を主に使っていたのでもうマレーシア語のない学校で学ばせてやりたいと思い、5年修了時にインター校に転入しました。セカンダリースクールのみの学校でいきなり7年生になってしまいましたが、なんとかかんとか奇跡的に入学試験にも通ってくれて、クアラルンプールの中心にあるローカルインター(学費が安く実際にはほとんど生徒がローカルのインター校)に通い始めました。

そこでは友人もできて、以前よりは楽しそうに通うようになりました。成績の低い子供への特別補習もあり、それにかなり助けられてもいました。しかしよかったと思ったのも束の間で、勉強はだんだん厳しくなりまたもやついていくのが難しくなってきました。おまけにもう家庭教師もインター校のシラバスで教えることはむずかしくてできない、というし、いろんな小論文を課題に出されて帰って来るのですが、それに取り組むさまを見ても全く理解できていないことがよくよくわかりました。何とか少しでも点を取らせてやろうと、歴史や地理の課題を書いてやったりもしていましたが、長期的な解決には全くなっていないことは一番よくわかっているので、どうすればよいのか、と悩みも深くなっていきました。特に、セカンダリの5年生になるとイギリス系のIGCSEという国際統一試験があり、一定の教科を合格できないとそこからの進学が一切できなくなるという厳しいものなので、2年生が終了するころには頭を抱えていました。ただし、本人は結構楽しく学校に通っており、先のことはあまり考えていないので柔道のクラブやクラスメートとの家の行き来を楽しんでいました。

本物のインター校へ

先のことが心配すぎてもうどうすればよいのかわからない、となっていた時にわたしにヨルダンへ赴任しないかという話が舞い込んできました。専門の仕事を認められてオファーを貰ったのでそれはうれしいものでしたが、それよりもこれこそが長男への教育の突破口になりうるかも、という気持ちの方が実は強く一も二もなく引き受けました。しかしその時上の双子は14歳、下は11才ともう思春期からティーンエイジャーに差し掛かる時期で、なんで友達もいる慣れ親しんだ学校を離れて全く知らない場所に行かなければならないのかと、子供たちからものすごい抵抗にあいました。それはまあ、自分がそれくらいの年齢だったころを考えてみても恐怖でいっぱいになることはよくわかりましたが・・・。いちばん抵抗したのは当の長男でした。家族が大好きなのに、それでも自分はおばあちゃんとマレーシアに残るとまで言いました、新しい環境への不安と恐れが一番大きかったのです。しかし私としては、マレーシアの安い私立校やインター校の環境がベストではないということがよくわかっていたし、将来的に見れば絶対子供たちにもプラスになるということが予測できたので、全く動じませんでした。結局下の子が折れ、長女が折れ、長男も涙目になりながら折れました。

マレーシアは長らくイギリス領だったため、教育もイギリス式でそのためインター校選びもイギリス系一本となりました。ヨルダンというヨーロッパに近い場所でもあり、本当に世界中から様々な生徒が来ており、先生はそのほとんどがイギリス人でした。マレーシア風英語に慣れきっていたの子供たちは、最初はその正しいイギリス英語について行けず英語サポートを受けていましたが長女と次男はすぐに支援なしでついて行けるようになりました。しかしやはり長男は結局3年いた学校で最後まで英語サポートをしてもらうことになり、結局はそれが他の科目のサポートとしても大いに役立ち、自分の英語に自信を持つにいたりました。他の科目でも少人数クラスの上に補助教員による個別サポートもあり、またIGCSEを受ける1年前からは、特別サポート教員がその試験合格を目指すために個別に支援してくれて、これが大いなる助けとなりました。その専門サポートはさすがに別途個別支援料として支払うことになりましたが、ケチな私もさすがにそこには文句なしでした。今でも感謝していますが、まるでサリバン先生のような熱心な先生で、長男はなんとかかんとか進学できるだけの成績をぎりぎりで収めることができたのです。ただ、学校生活では自分は英語があまりうまくないという思いが強すぎて同学年の友だちを作ることができず、その代わりに2つ下の弟の友人たちといつも仲良くしており、結局家を行き来するのもすべて弟と一緒にその友人たちと、ということになり、これが境界領域ということなのかなあと思ったりしました。まあ楽しんでいるので、弟産んどいて本当に良かった、としみじみ思ったものでした。また、不思議なことに長女も次男も勉強ができない長男をちょっとからかうようなこともありましたが、大好きなゲームは集中してあっという間に達人の域になったり、友人のケンカをうまく仲裁するようなこともあり、基本的に何やら尊敬しており、ずっと仲の良い兄弟でした。

え、その進路?

そのヨルダンでの3年間の仕事を終えて、私と次男は他の国へ赴任となり、上の子供たちはマレーシアに戻って進学となりました。マレーシアに一緒に戻ってしまっても、夫は仕事を辞めてヨルダンについてきてくれていたので、年齢的に次が見つかるかあやしかったし、私は子供たちを大学へやるだけの仕事がありそうになかったので一緒に住むことを断念しました。長女は大学へ進むために大学予備課程に入ることになりましたが、長男の成績ではそれは無理だったので日本でいう短大のような2年生のカレッジに入学したのですが、なんとホテルマネジメントを選んでいました。人と話すことが苦手で技術職につきたいと言っていたのにいきなりの方向転換で驚きました。しかしとにかく新しいこと、新しいチャレンジが怖い長男は長女がいくから、と家が近いからという理由で長女と同じカレッジに決めてしまい、なんとそのコース選択はあまり難しそうじゃないから、という理由だったのです、最悪のパターンです。まあ職業訓練校よりも高等教育っぽいカレッジに行きたがるのはよしとしても、もっと手に職つけられそうな専門性高そうな学科もあるのに、難しそうなところは嫌だ、とそれを選んだというのです。またしても大きな心配の種となりました。ホテル業?!コミュニケーション、バリバリ必要なのでは?学校でもついていけるのか?。。。しかし、高等教育はほぼすべて英語になるマレーシアで、彼は他の生徒に比べてかなり優位に立てたのです。中国系の人が多いカレッジで英語が第一言語の人がほとんどいない中で、英語でのコミュニケーションにほぼ不自由なくなっていた長男は、圧倒的優位になりました。みんなあまり英語が話せないから、グループリーダーになったよ、などと言い出すことになり、そのような中で自信もついたのかよく自分から勉強するようになり、結構よい成績であとはホテルで実習を残すのみ、というところまで来ました。英語の苦手なクラスメートをサポートする代わりに会計学など苦手教科を教えてもらったりして、仲の良い友人もでき驚いています。現在は数か月にわたる泊まり込みのインターンシップがはじまり友人らと助け合いながら、きつい夜のシフトの実習にも取り組んでいて、子供って親の心配をよそに勝手に成長するもんなんだなあ、と実感しています。今や兄弟の中でも一番に社会を経験して頼もしささえ備えつつある息子に感心するばかりです。

とはいえこれで安心じゃないのも知っています。実は知的ボーダーの人は障害者の仲間にももちろん入れませんが、一般職員の間でも仲間に入れずに鬱になったり引きこもったりすることも多いのです。でも元々とても多様性のあるマレーシアは、日本に比べて一般的な許容範囲が広いような気がしています。彼にとっても生きやすいのではないかと思っています。何でもありなマレーシアで、彼が強くたくましく成長してくれることを願うのみです。

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