国連ボランティアの経験(上)

セラピストから国際協力へ

25年前に青年海外協力隊出身者の枠で国連ボランティアに参加した経験。理学療法士としてパレスチナ赤新月社で勤務しました。

青年海外協力隊で任期を満了した人には、次のステップとして国連ボランティア(UNV)に応募できます。これは、応募者の派遣費用をJICAが負担することにより、登録制のUNVにいつまでも待つことなく、オファーの来る確率が爆上がりするというものです。UNはいつもお金がないので、派遣費用のスポンサー付きの応募者は大歓迎なのです。推薦を受けるための審査がありますので、セラピストとして国連機関で次のステップに進みたい人、国際機関での仕事に興味のある人はオプションの一つとして考えられると思います。

JOCV枠UNV制度
私たちは、日本と開発途上国の人々をむすぶ架け橋として、互いの知識や経験を活かした協力をすすめ、平和で豊かな世界の実現をめざします。

私の場合、応募からオファーまで

私の場合の応募動機は、結婚後マレーシアのNGOでPTとして働いていたものの給料が安くこれでは生きていけないし将来の生活設計も何もできないと思っていたところへ、UNVいいんじゃないかと勧めてくれた友人がいたのです。なんと今から25年前のそのころは、UNVへの希望者がとても少なくて、勧奨のためにJICAからの国内積立金も別に出ていたのです。PTとしての国際協力のキャリアが続けられるうえに、よい手当が出るとあってはもう選ぶ余地はありません。夫もついてきて来てくれるというので、申し込みました。

UNVは青年海外協力隊よりもより長い経験を要求されており、大体10年くらいが目安のようです、私は経験年齢も少し足りず、さらに英語も全然まだ下手でしたがあまり深く考えず申し込みました。UNVのホームページによると平均年齢は38才だそうで、家族を帯同してもよいし、条件に合えば夫婦で同じ国にそれぞれがUNVという立場で派遣してくれたりもします。ポストに応募するのではなく登録制でマッチングされた後にオファーが来ます。私の場合は、登録が終わってから2カ月くらいで夜中の3時にドイツのボン(当時のUNV本部)から電話でたたき起こされ、パレスチナにどうぞ、と言われました。現在はまず電話面接があり、その後改めてオファーがあるそうです。

赴任から着任まで

パレスチナと聞いてえ、何それ、危ない響きが、と思ったのですがJICAからの赴任者はまだ全然いない時期で、アラファト議長が平和推進しようとしておりパレスチナ独立に向けて動いていたのでこれは面白いかもしれないと思ったのです。普通ならもっと慎重になるかもしれませんが、なんといっても行く目的が上記の通りですのでどこでもいいから行きますー、という状態で行ってしまったのでした。

さて、ここで困ったのが一緒に行きたかった夫の国籍でした。パレスチナはイスラエルの中にあり、イスラム国家マレーシアはイスラエルとの国交を持っていなかったのです。ガーン、これは時間もかかりそうだし向こうで何とかするしかない、とりあえず行きます、と一人で行ってしまったのでした。

東京に行ってJICA本部に行ったりUN事務所に行ったりしてブリーフィングを受けたり契約にサインしたりして成田を出発しました。1999年末のことです。それが行くときから大トラブルで、エールフランスはパリのストライキでなんとフランクフルトに着き、そこは大雪で一泊せざるを得ず翌日もなかなか飛行機が出ずパリについてまた一泊、2泊3日でやっとイスラエルのテルアビブ空港に着いたのです。エルサレムのパレスチナ居住区へよれよれになりながら着いたら、イスラエル人の警察に聞いてもパレスチナエリアにあるUNDPの場所を知らず、すぐ近くなのにパレスチナ人のタクシーにぼったくられてやっとUNDP事務所に到着しました。

担当者はフランス人で、なんか遅かったねー、じゃあ会計部でお金貰って着任してね、と。え、それだけ? ぼくもPTなんだよ、元UNVだけどラッキーなことに今のポジション貰ったんだーと。ラッキーなのそれ?と思いつつ会計部でペロッと渡された5か月分の手当ての小切手貰って、指定のしょぼいホテルへ行きました。そこは人も少ない暗いホテルで、寂しすぎるうえにイスラムの断食月中でレストランも全部閉まっていました。さすがにめげて暗い気分になりました。

パレスチナ赤新月社

配属になったパレスチナ赤新月社の本部はヨルダン川西岸パレスチナ自治区内の首都ともいえるラマラという場所にありましたが、そこはパレスチナ自治区、イスラエルの管理下にあるエルサレムから境を超えようとすると、兵士によるチェックはあるし少し行けばタイヤが燃やされてるしうーん、早まってしまったかもと思いつつタクシーを乗り換えていきました。協力隊と決定的に違うことは、よく言えば自由度が限りなく高いことですが、それはイコール放っておかれるということで、もう心細いこと限りなかったです。協力隊がどれだけ手厚かったか、身に沁みました。

パレスチナ赤新月社は日本でいう日本赤十字社で病院やら施設やら障害児の学校も支援していました。私は、全然待ってましたー、という感じでもなく、それではこのリハ施設とこの学校に日替わりで出勤してくださいと言われ、行ってみたらどちらも車で40分くらいかかるえらく遠い場所で乗り合いタクシーで通うことになりました。リハ施設はとても立派な割に患者さんが少ない上に2人しかいないPTは非常に仲が悪く口をきかない、学校は生徒も来ていてかわいらしいがほとんど知的障害児で私のいる意味が全然分からない感じでした。それでも何でもとりあえず勤務開始し全然わからないアラビア語が飛び交う中での生活が始まりました。PTはどちらにもいました、そして現場ではとくに技術移転も望んでいなかったし私がいなくても全然問題なさそうでした。仕方ないので現場のセラピストの一人として勤務開始しました。

あとから聞いたところにとると、パレスチナには政府として資金援助はできてもJICAを通して人を送れないので、顔を見せる援助ができずとにかく日本人に行ってほしかった、らしいです。その時パレスチナにいた日本人は30人以下だったと思います。

夫呼びよせと避難一時帰国

UNDP事務所の支援でビザが取れて夫はやってきました。実は夫は若いころのけががもとで車椅子利用しており、マレーシアで仕事もしていましたがさっさとやめて一人でやってきました。マレーシア人がテルアビブの空港から入国することはほぼないので、タイでエルアルイスラエル機に乗り換えるときの検査は3時間にも及んだそうです。スパイ容疑?車椅子利用で目立つ上に小回りの利かないスパイです。

せっかく来てくれたので、車を運転できるように、またテルアビブまで行って改造したりいろいろ大変でしたが、何かと生活が落ち着いてエジプト旅行でも行こうかと話していました。そのうち、イスラエルとの関係がどんどん悪化し、ついにラマラに空爆が始まったのです。ドカーンという音が近所で聞こえつつテレビではCNNがついに攻撃が始まりましたー、と時差でドカーンとスクリーンから聞こえてきて現実とは思えず呆然としました。もちろん無差別攻撃ではなかったものの、誤爆はあり得るし家はアラファト議長の家のすぐ近くだしどうなんかなあと思ってたら、「明日退避です」という電話がかかってきました。

用意されていたのはロシア製の国連軍用パラシュート機(そんな名前かどうか知りません)でした。パタンと倒して座る固いシートの5時間も乗って、やっと最初の行き先ウイーンに着いた時にはみんな具合が悪くなっていました。国連関係者のほとんどはエルサレムに住んでいたので、そもそも退避などしたくない人ばかりで国際結婚の上に第三国からメイドを連れてきている人などもいて、自国といっても全員で帰国するには2週間はかかると言っていて本当に大変そうでした。国連職を渡り歩いている人は戻る家などなくて困惑している人もいました。

思い出すままにつらつら書いたら長くなったので、これで上巻おしまいです。

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