単身赴任になってエルサレムへ
2カ月近くの退避帰国ののち、危険地区扱いになってしまい、パレスチナ自治区への復帰は不可となり、イスラエル管轄下にあるエルサレムの障害児者の施設に配属変更となって再赴任しました。エルサレムの中でも東エルサレムはパレスチナ人居住区で、セツルメントという特別居住区以外の住民はすべてパレスチナ人でした。家族帯同は認められないとのことで、夫にも義母にもお金と命とどっちが重要なんだと詰め寄られましたが、お金かなやはり、と一人戻ってしまいました。エルサレムであればイスラエルの領内なのでまた空爆されることは考えられないし、大きな心配はしていませんでした。
エルサレムの旧市街の中に部屋借りをして新しい職場となるNGOに行くと、PTやOTに加えて音楽療法士やプレイセラピスト(遊戯療法士)までいて、さらに自分の立場を疑う羽目になりましたが、とりあえずPTの一員として仲間入りさせてもらいました。患者さんはほぼ英語は話せないので、とりあえずアラビア語でのあいさつと数字とこんなふうに、という言葉だけでのサバイバルなセラピーながら、東洋人PTを面白がってもらえ、そのうちに同僚にも何とか認めてもらえるという具合で、スタッフへの指導どころか手助けしてもらうばかりの情けなさでした。
エルサレムではイエス様のお墓に歩いてすぐという、もうキリスト教徒にとってもユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとっても聖都の本当のど真ん中に住んでいたのですが、わたしには全くの猫に小判でした。和平の情勢は芳しくなく、時々自殺攻撃のすごい音が響いてきたり、またこの滞在期間に9.11も起きました。それでもパレスチナ人の居住区は狭いところに大勢が住んでいるので、人々は普段通りに生活しており、私も毎日普通に出勤していました。
国連ポスト争奪戦とUNV
国連で働くスタッフには先進国だけではなく、東南アジアやアフリカからの派遣者も多く、そのほとんどが契約スタッフなので、次の契約を得るためにみんなが目を光らせており虎視眈々とチャンスを狙っています。もうすぐどこかのポストが空く、募集が始まる、と聞くと何とか公募が始まる前に約束を取り付けておこうと本当に必死にあらゆるつてを利用し自分がいかに適切な人物であるかを主張します。UNVはのんびりしている人もいますが、これを機にUNのオフィサーのポストに就きたいと思っている人はこのポスト奪取競争に参加してくことになります。
そんなことを考えもしていなかった私はこれを見聞きして唖然としましたし、もしもステップアップしてUN機関の空席を希望しても、とてもこの中で勝ち抜いていくことができるとは思えませんでした。また、こういっては何ですが、かなりコネがあるかないかで次のポストは左右されるうえに、上層にコネがあれば赴任国の希望やポストまで聞き入れられるようでした。私は国連事務所からは離れたところで勤務していましたが、時々行くUNDP事務所内外でのこのドタバタを見聞きするにつれ、将来も国連のポストを希望することはないかなー、と思っていました。
ちなみに赴任時にわたしを受け入れてくれたフランス人の元UNVのPTは、UNDPでのオフィサーとしての席を得た次は、UNICEFでの職を得たといっていました。その人のことをまた他の人が、上に取り入るのがうまいからなあ、とやっかんでいて、聞くにつけ怖い、私にはとても無理だ、という思いを新たにしたのでした。
というわけで、国連の職というものは外務省が募集するJPO(Junior Professional Officer)の競争試験に勝ち抜いたエリートが行くものと思っていましたが、そうでもなくUNVからうまくつてを使ったり、推薦されて入っていくこともできるのだということを学びました。私は当時はそのような希望は一ミリもありませんでしたので、そのポスト争奪戦を見聞きして、特に途上国や紛争国出身の人は必死になるかもしれないなあ、大変だなあみんな、とのんきに考えていました。
のちになって国連の職員の方から聞きましたが、やはり国連の空席の公募はかなりされてはいるものの、実際にはそのほとんどが内部応募で埋まってしまうとのことでした。それを考えると、もしこの機会を利用して国連に食い込みたいと思っている人には、このJOCV枠のUNVは最初の一歩としてよい機会かもしれません。今はUNVでも国連事務所のオフィサーやその補助としてのポストもかなり多いようなので、最初からそれらのポストについて次のステップを狙うのはありだと思います。
とはいえ、UNVはあくまでもボランティアなので、UNのオフィサーとしての給料は出ませんし、基本的には次のステップへつなげていくものではありません。手当ですが、私の場合夫が帯同した加算を入れて月22万円くらいでした(派遣国の物価で決まります)、その中から家賃も通勤にかかる費用も出すのでそんなに楽でもつらくもないといったところでしたが、同僚の赤新月社のスタッフと比べれば3倍くらいはあったように覚えています。医療保険はついていましたし、もちろん往復の飛行機代や支度料、場所柄医薬キットに加えてガスマスクも支給されました。協力隊に比べると人材育成の部分やきめ細かいサポートは全くなく、使い捨て感がありましたが国際協力の舞台裏を垣間見たり、中東での生活を楽しむよい機会となりました。
終わりに
いろいろと思い出して、少し気を抜くと思い出ダイアリーのようになってしまうので、そんなこんなの後半1年の話は、この辺で終わりにさせていただきます。任期は2年、ちょうど前半はパレスチナ自治区で、後半はエルサレムでの勤務になりました。後半では状況の悪化からもう新規のUNVは派遣されていなかったにもかかわらず、UNV本部から延長打診が来てなんでやねーん、とお断りさせていただきました。空爆時のヘリコプターの音はしばらくトラウマになり、ヘリの音がすると首をすくめて上を見上げる、というのが帰国後1年くらい続きました。
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